関西LOVERS

真田丸や大坂冬の陣、夏の陣での真田幸村奮戦の跡をたどる

2018年11月10日(土)/天王寺・阿倍野・新世界


真田幸村像(三光神社)

真田幸村像(三光神社)

慶長20年(1615年)5月、西軍豊臣方の真田幸村は決死の奮戦で、東軍の大将徳川家康が死を覚悟するほど、あと一歩というところまで追い詰めましたが果たせず、戦場の露と消えました。しかし利になびかず義に従い、時の最高権力者家康に正面から挑んだその潔い姿は、「真田日本一の兵(つわもの)」と称され後世の多くの人々を魅了し今も語り伝えられています。今回は大阪城周辺に残る真田丸の遺構跡ほか真田幸村にまつわる史跡をご案内しましょう!

真田丸か!? ~真田山公園と三光神社

真田山公園

真田山公園

JR環状線の鶴橋駅を降りて北へ少し歩くと公園が見えてきます。これが真田山公園。名前からしてこれが大坂冬の陣で徳川方を悩ませたあの真田丸跡か!?と思うところなのですが、どうやらこれは違うようです。逸る心を抑えて真田山公園を左手に見ながらそのまま北へ進んで行くと、こんもりと緑に包まれた小山が。これが「三光(さんこう)神社」で、最近までここが真田丸の跡だ、とも言われてきたのですが、近年の調査によってここも違うことが分かりました。しかし、真田幸村が武者姿で采配を振るう勇ましい銅像や、六文銭の盾を並べた陣地などが作ってあり、そこそこ雰囲気を味わえます。

三光神社
三光神社

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神社内にはそこここに赤い六文銭の真田の旗がなびき、否応なしにテンションが上がって来るのです。ちなみに、幸村像の台座は幸村の故郷信州上田、真田家の菩提寺である長谷寺から持って来た石だそうです。また三光神社の社務所の売店では、六文銭の赤旗の置き物や様々な真田幸村グッズを売っています。この近辺で幸村に関するお土産を扱っているのはここだけですので、真田ファンの方ははずせない場所ですね。

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真田の抜け穴?

三光神社の幸村の銅像の向って左側に「真田の抜け穴」と呼ばれる岩穴がぽっかり空いています。ここに大阪城まで続く抜け穴があったと言い伝えられていますが、現在は鉄格子がはめられて入れないようになっています。

抜け穴と言えば、関ヶ原の戦いのあと幸村が父昌幸と共に流罪となった紀州和歌山の九度山にも「真田の抜け穴」と呼ばれる所があり、豊臣方の要請を受けて加勢のために大阪城に入る際、この抜け穴を通って脱出したという伝説も残っています。「真田十勇士」など後世の戯作で忍者の活躍に彩られた真田幸村ならではの伝承ではないでしょうか。

真田の抜け穴

真田の抜け穴

真田丸の一部!? ~心眼寺

心眼寺

心眼寺

三光神社を背に西へ進み、交差点を左に折れゆるやかな坂を登りかけると目につくのが心眼寺(しんがんじ)。 元和8年(1622年)、白牟(はくむ)和尚が真田幸村、大助父子の供養のために建立した寺だと言われています。六文銭の刻まれた門前の石碑には「真田幸村出丸城跡」とあり、この辺りにはお寺が並んでいます。

最近発見された広島・浅野藩の「諸国古城之図」の「摂津真田丸図」によると、真田丸の中にはお寺がいくつか書かれています。これは建て付けがよく頑丈なお寺の建物をそのまま真田丸の砦として使ったことを示しているようです。境内には2015年、幸村没後400年記念として作られた石碑もあり、ファンには欠かせない写真スポットでもあります。

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ここがホントの真田丸跡!?~明星学園高校

真田丸跡の碑

真田丸跡の碑

心眼寺から西の辺り一帯が世に言う「真田丸」だったらしいことが最近までの発掘調査などで分かってきました。明星学園高校のある所がまさにそうで、東側の校庭のフェンスに面した歩道に「真田丸顕彰碑」の石碑も建てられています。

真田丸は慶長19年(1614年) 大坂冬の陣にあたり、三方を川に囲まれた大阪城の唯一南東部分だけが平地で陸続きとなっていて、この弱点を必ず徳川方は突いてくると見た幸村は、あえてその外堀の外に「丸馬出し」という出城を作り、ここを防御の拠点としたのでした。その陣容は南北約220m、東西140mにも及び、周りに空掘りを備えたまさしく出城です。

「丸馬出し」という砦を使った戦術を得意としたのは信玄に代表される甲斐武田氏。武田家に仕えた祖父幸隆、父昌幸からそのノウハウをしっかり伝授されていたのかも知れません。

最近の研究では真田丸は単に防御に留まらず、積極的な攻撃の拠点でもあったことが分かってきています。慶長19年(1614年)12月4日の戦いでは、天下分け目の関ヶ原の戦いの時、父真田昌幸と信州上田城にこもって戦い、東軍の主力であった徳川秀忠軍を翻弄した時のように、徳川方を挑発して真田丸の南側の空掘りに誘い込んだのです。そして上から散々に銃弾の一斉射撃を浴びせかけ、前田、松平、井伊、藤堂ら冬の陣での徳川方の損害の8割に当たる数千人が犠牲になったと言われます。無名だった真田幸村が天下にその名を轟かせた瞬間でした。

のちに冬の陣のあと、東西の和平交渉で取り交わされた講和によって、真田丸は取り壊されてしまい堀なども埋め戻されてしまったため、今となっては定かでなく、真田丸の姿は我々は想像するしかありませんが、歩いてみると土地にはわずかでも400年前の記憶を残している部分があるのが分かります。当時の姿を想像しながら歩いてみるのは、ファンにはまた堪らなく楽しい時間でもあるのです。

明星学園正門辺り

明星学園正門辺り

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大阪城外堀跡か? 空掘町の街筋と石垣が残存

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真田丸がかつてあったと思われる辺りをぐるりと回って明星学園を右手に見ながら坂を北へ降りて来ると斜めの道筋に出くわします。街角の標識には400年経った今でも「空掘町」の名前が!真田丸は大阪城の端に出来たコブなのではなくて、完全に外堀の外側に別個に飛び出して作られた砦だったのです。

あたりを探索すると清水谷公園の北側に立派な石垣が残っています。大阪城外堀の石垣の一部なのでしょうか?つまり難攻不落の巨大な要塞、天下一の大阪城はこの辺りまであったのです。(ここまで所要時間徒歩約1時間半)

決戦!大坂夏の陣 幸村最期の陣地~茶臼山

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茶臼山

茶臼山

真田丸を堪能したあとは、JR玉造口まで戻り、ここからJR環状線で今度は天王寺へ。あべのハルカスを背に、通天閣を左に見ながら天王寺公園の中を突き抜けて歩いて行くと、こんもりとした緑の小山が。それを取り巻く池に架かる和気橋を渡ったところが目指す茶臼山。大坂冬の陣では徳川家康が陣を敷き、夏の陣では真田幸村がここに陣を取りました。もともとは前方後円墳の古墳だった所で、平野の中でこの辺りが唯一少し高く、遠くまで見渡せる地形になっています。

冬の陣のあと結ばれた講和の中で、徳川方は大阪城の外堀を埋めると称して内堀も埋めてしまい、大阪城は堀の無い裸城になってしまいました。もはや城外に打って出ての野戦しかないと踏んだ幸村は、後藤又兵衛らと乾坤一擲最後の勝負に出るのです。

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慶長20年(1615年)5月7日、茶臼山に布陣した3500の真田軍は明石全登軍の到着を待ち、総攻撃をかけることにしていましたが、その到着が遅れ乱戦が始まってしまいました。もはやこれまで、と幸村は最後の大勝負として徳川家康本陣への突撃を開始したのです。

真田幸村終焉の地~安居神社

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茶臼山をぐるりとまわって一心寺の脇を通り、道路を渡って少し西へ行くと道沿いにひっそりとあるのが安居神社。徳川家康本陣に3度までも決死の突撃を行った末、傷つき疲れ果ててここで休んでいるところへ福井藩士らと遭遇し、討ち取られたと伝えられます。享年49歳。

幸村と戦って討ち取ったと言う福井藩士に対し、家康は「戦って勝てる相手ではない」と気分を害し褒美をやらなかったと言われます。真田幸村の凄さは誰よりも家康本人が一番分かっていたのかも知れません。

境内には「真田幸村戦死跡」と記された石碑や、2009年完成の幸村最期の姿を描いたとされる坐像、また幸村が寄りかかって休んだと伝えられる「さなだ松」もあります。坐像には六文銭ならぬたくさんのお賽銭が・・・。ここは幸村ファンならば絶対欠かせぬ観光スポットでしょう。毎年命日に合わせて5月5日には安居神社では真田幸村の慰霊祭が行われています。仙台の伊達家家臣となった幸村の次男守信の14代目の子孫の方も参列され、毎年たくさんの真田ファンが集う催しだそうです。(JR天王寺駅から徒歩約15分)

幸村戦死跡の碑

幸村戦死跡の碑

さなだ松

さなだ松

没後400年以上経った今でも、幸村を慕う人がひっきりなしにこの終焉の地を訪れます。強大な権力になびかず、義と自らの生き方を貫き、そして智謀を駆使して最後まで諦めず勝利を信じて戦った真田幸村の生き方は、何かと生きにくい現代の私たちにもひと筋の光明を照らしてくれるものだからなのかも知れません。(了)

真田幸村坐像(安居天神)

真田幸村坐像(安居天神)