関西LOVERS

天下布武、織田信長ゆかりの安土城へタイムスリップ

2018年10月13日(土)/滋賀


天正10年(1582年) 6月2日未明、京都、本能寺で家臣明智光秀の謀反に斃れた織田信長。「比叡山焼き討ち」や「長島一向一揆鎮圧」など強引な武力討伐に恐れ嫌う人も多いですが、信長もし無かりせば、戦乱の世は間違いなくもっと長引き、今とは違う現在になっていたことでしょう。

その織田信長の絶頂期、天下に覇を唱えるため近江(滋賀県)の安土に築いたのが安土城。琵琶湖畔の安土山の頂上に立つ5層7階建てのその威容は、えも言われぬ壮大なものだったらしく、ポルトガルのイエズス会宣教師ルイス・フロイスも「ヨーロッパにも無いほどの壮大さ」と書き残しています。

本能寺の変の後、何者かによって火が放たれ惜しくも焼失してしまいましたが、城跡には今も累々たる石垣や階段がその名残をとどめ、国の特別史跡にも指定されています。

さあ、これから信長時代の安土城へタイムスリップです

いざ出陣、JR安土駅をスタート

安土山

安土山

JR東海道本線を京都から約46分、安土駅で降りて改札のすぐ目の前にある安土観光レンタサイクルでまず自転車を借りましょう。駅前の家並みを過ぎ、田んぼの中の道を北へ進んでゆくこと約10分。こんもりと木の生い茂った平たい安土山(標高199m) が見えてきます。県道を渡ると、そこは夢にまで見た安土城祉。総普請奉行に丹羽長秀、縄張奉行を羽柴秀吉が勤め、3年の歳月をかけたのち天正7年(1580年) 5月に完成。天守閣を持つ我が国史上初の城で、以後の城郭建築のモデルとなりました。城址入口に到着したら駐輪場に自転車を停えんめて、いよいよ大手口に進んで行きます。(入山料 大人700円 小人200円)

大手道へ。石段が凄い

IMG_2787 いよいよ憧れの安土城! ワクワク、ドキドキと胸の高鳴りが抑えられません。正面の大手道より登って行くと長い石段がまっすぐにずっと続くこと180m。1段1段の幅が広く丈も高くて膝に来ます。まるで信長が「どうだ!」と言っているのが聞こえるようで試されているような感じがします。低い山城だと侮っていましたが、想像以上に足にくる。そして、な、なんと階段の石段の中には石仏も石仏が踏み石に!? 神や仏をも恐れぬ信長らしい・・・。

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羽柴秀吉邸跡

羽柴秀吉邸想像図

羽柴秀吉邸想像図

大手道の丁度中程辺りまで登って来ると、石段の両側には家臣たちの屋敷が当時は建っていました。頂上に向かって右(東)側が前田利家邸跡、左(西)側に羽柴秀吉邸、大手道の終わる辺りに徳川家康邸跡があり、主殿や櫓、厩などがあったと言われています。家康邸跡には昭和7年、摠見寺の仮本堂が建てられ現在に至っています。

安土城天守閣に向かう大手道の両側に、秀吉、利家といった尾張時代からの子飼いの家臣の屋敷を置き、その上には固い同盟を結び信頼していた三河の家康邸を配置する…信長の意図が何となく伝わってくるような気がしませんか・・・。

秀吉邸跡

秀吉邸跡

いよいよ本丸跡へ

本丸跡

本丸跡

180mの大手道を真っ直ぐに登り終えると、急に左に曲がり「七曲り坂」と言われるクネクネとした坂が続きます。そして信長の嫡男、織田信忠の邸跡を左に見ながら黒金門を入ると、ここからは信長エリア。家臣の屋敷と自分の住居地帯とをこの黒金門で区分していたと言われています。

黒金門

黒金門

黒金門(くろがねもん)を入りさらに進んで行くと、広い所に出ます。これが本丸跡。1989年から20年かけて行われた滋賀県による発掘調査で、ここにあった本丸御殿は京都御所で天皇が暮らす清涼殿に似せた作りとなっていることが判明しました。信長の家臣であった太田牛一の書いた「信長公記」によれば、天守近くに「御幸の御間」と呼ばれる建物があったとされ、どうやら天皇の行幸のために準備された御殿であったと考えられています。

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仏足石(ぶっそくせき)とは何?

仏足石

仏足石

天守閣跡に早く行きたい逸る気持ちを抑えて少し後戻りを・・・本丸跡の手前、二の丸跡の脇に置いてある足形のついた石が仏足石です。古来インドには仏像を作って拝むという風習がなく、それ以前は釈迦の足跡を彫った石を人々は崇拝していました。日本には奈良時代に仏足石が伝わり、多くがその時代に作られました。安土城は3年という短い期間に大急ぎで造築したたため、石垣や石段などにする石も不足し、どこかにあった仏足石をそれに代用したらしいのです。発掘調査の際、崩れた石垣の中から発見されたとのこと。ここにも既存の宗教や信仰など全く恐れぬ信長の気風がよく表れています。

摠見寺跡

摠見寺跡

摠見寺(そうけんじ)は、安土城築城に際して信長が自分の菩提寺として建てた臨済宗の寺で、城内に寺院があるのは安土城だけです。天正10年の本能寺の変の直後の火災でも焼け残りましたが、安政元年(1854年)に出火し本堂を焼失。仮本堂が昭和7年、大手道脇の徳川家康邸跡に建てられました。焼け残った三重塔と仁王門は当時のままで現存しており、国の重要文化財にも指定されています。

信長公本廟

信長廟

信長廟

黒金門を入ってすぐ左にある二の丸跡の奥にあるのが信長公本廟。本能寺の変の約一ヶ月後に開かれた織田家の後嗣問題を決する清州会議で、信長の嫡孫 三法師を擁立し、これを後見することで後継の主導権を握った羽柴秀吉は、翌年2月に信長の遺品である太刀、烏帽子、直垂などをここに埋葬して本廟としました。天正11年6月2日、信長の一周忌には織田一族や家臣を集めてここで盛大な法要を行い、天下取りへの第一歩を踏み出すこととなったのです。

ついに天守閣跡へ

天守閣跡

ついに、ついに、天下統一を目指した織田信長の天下布武の象徴、あの世に名高い安土城天守閣の跡に立つ時が来たのです!大手口から続く石段の実に405段目。高さ33mにも達する5層7階建ての荘厳な日本初の天守閣があったその中心に立つと、一帯は大きな8角形になっていて、辺りには夥しい数の礎石だけが今はその跡を留めています。その中央部分に柱の礎石が無いことから、中はなんと吹き抜けだったのではないかと考えられています。

天守閣跡

天守閣跡

当時の資料によると最上階は金色、その下の階は朱塗りの八角堂となっていて、また内部には御用絵師でもあった当代一流の絵師、狩野永徳の手による障壁画や装飾が絢爛豪華に施されていたということです。日本史上初の木造による高層建築で、以後の城郭建築に多大な影響を与えました。

頂上より琵琶湖を望む

頂上より琵琶湖を望む

天守を囲む石段の上に立つと、北にははっきりと琵琶湖が見渡せます。当時はこの辺一帯も干拓されてなく、城も琵琶湖に面していました。うっそうと生い茂った木立の枝葉をザザーっと音を立てて湖畔から吹き上げる風が通り過ぎて行きます。あの信長がこの同じ場所に立ち、同じ景色を見、同じ空気を吸っていたのかと思うと何とも言えず気持が高揚してきて感無量。「天下布武」を標榜し、天下統一を目指しながら目前で家臣の謀反に斃れた信長の胸中やいかばかりか・・・まさに兵(つわもの)どもが夢の跡 ですね。

近隣施設~信長の館

近隣にもいろいろ関係する諸施設がありますが、行っておきたいのは自転車で安土駅から10分の「信長の館」(入館料大人600円 小人170円 月曜休館) ここにはなんと安土城天守の頂上2層を原寸大に復元したものが展示してあるのです。1992年(平成4年)のスペイン・セビリア万博に日本館のメイン展示として出店したものを、安土町が譲り受けたもので、外壁にはなんと約10万枚の金箔が施してあるとか。極めつけは館内で上映しているVR安土城ショートムービー。宣教師 ルイス・フロイスが天正9年の安土城に招待されたというシチュエーションでフロイスの視点から当時の安土城全山の様子を映像で再現してあります。ここでは ↑ そのダイジェスト版を御紹介。430年前の安土へタイムスリップを味わって下さい。

信長の館のすぐそばにある「文芸の郷レストラン」には安土御膳や信長ハンバーグ定食、戦国焼き定食など手ごろな値段でランチも楽しめます。

現存していれば、間違いなく日本一の名城、安土城の往時の姿を妄想し、信長の息遣いを感じながら、あなたも歩いてみてはいかが・・・

(了)