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京都に残る幕末の志士 坂本龍馬の足跡

2018年09月29日(土)/京都


幕末の風雲児、坂本龍馬。激動の時代を生き抜き日本中を駆け回った坂本龍馬は、今から150年前の1867年(慶応3年)、京都で暗殺者の凶刃に斃れました。まだ33歳の若さでした。

龍馬は晩年、京都を中心に日本中を東奔西走し討幕運動の中で大きな役割を果たします。また京都は後に妻となるお龍と出逢い、恋の華を咲かせた街でもあります。

「好きな歴史上の人物」ベスト3に常に入るほど人気の坂本龍馬の京都に残る足跡をご一緒に歩いてみましょう。

土佐藩邸跡(土佐稲荷)

土佐藩邸跡(土佐稲荷)

ウィキペディア

京都の中心部を流れる高瀬川に沿って、風情ある木屋町筋を四条通りから入り北上して蛸薬師まで来ると、小さな祠が見えてきます。当時この辺りにあったのが土佐藩邸で、隣の立誠小学校にかけて建っていましたが、今ではこの土佐稲荷神社だけが、当時を偲ばせます。龍馬も立ち寄っていて、脱藩後は龍馬には近寄り難かった所でもあります。

のちに龍馬が脱藩の罪を許され、ここで一週間の謹慎を食らったといういわくの場所でもありました。

池田屋跡

池田屋跡

幕末トラベラーズ

鴨川に架かる三条大橋のたもとから河原町通りの方に歩いてくると、三条木屋町の道沿いにあるのがあの歴史上有名な「池田屋」跡。幕末の歴史を語るに落とせない有名な「池田屋の変」。1864年(元治元年)6月5日の夜、京都御所への放火計画を企てていたとの疑いで、長州や土佐の過激な志士たちと新撰組の猛者たちがここで激突。凄まじい死闘となり夥しい血が流されました。それを思いこの地に立つ時、胸騒ぐ思いがします。

現在、元の場所は「海鮮茶屋池田屋」として居酒屋となっており、傍らに「池田屋騒動之跡」の石碑がひっそりと立っています。龍馬と神戸の海軍操練所で一緒だった土佐藩の友人、北添佶摩と望月亀弥太もここで犠牲となっています。

坂本龍馬・中岡慎太郎像

坂本龍馬・中岡慎太郎像

ココログ

鴨川に架かる四条大橋を東に渡り、祇園を通り過ぎて八坂神社を右手に見ながら丸山公園に入ると、ひと際人々の目を引くのが大きな坂本龍馬と中岡慎太郎の銅像です。

龍馬は左手で刀の柄を地面に立てて真っ直ぐ前を向いて立ち、その右脇に寄り添うように中岡慎太郎がしゃがんでいます。それは龍馬の突き進む道を支えるかのように、静に、しかし油断なく傍に控えているという方が正確かも知れません。ここは龍馬ファンには欠かせない写真スポットでもあります。

産寧坂(さんねんざか)と明保野邸

産寧坂(さんねんざか)と明保野邸

MAR-KER

円山公園から南へ向かって歩き、高台寺を過ぎて少し行くとゆるやかな坂が始まります。二年坂を過ぎて少し急な坂を産寧坂(三年坂)と呼び、そこを上がって石畳の中ほどにあるのが江戸時代からあった明保野邸。ここは幕末、龍馬や薩長の尊王攘夷の多くの志士たちが出入りしたことで有名です。司馬遼太郎は名作「竜馬がゆく」の中で、竜馬の初恋の相手、土佐のお田鶴さまと再会する舞台として描いています。明保野邸のメニューには様々な京料理があり、「竜馬御膳」というのも用意してあり人気です。幕末のロマンを感じながら、昔ながらの風情を楽しみましょう。

伏見 寺田屋

伏見 寺田屋

フォートラベル

歴史的な薩長同盟が竜馬の肝煎りで結ばれたその3日後、坂本龍馬は長州の三吉慎蔵と寺田屋の2階に泊っているところを伏見奉行所の捕り方に襲われます。世に言う「寺田屋事件」です。1866年(慶応2年)1月24日未明のことでした。

のちに妻となるお龍は寺田屋に住み込みで働いていて、その夜入浴中、只ならぬ気配に宿が捕り方に包囲されていることに気付き、咄嗟の機転で裸のまま裏階段を駆け上がり、龍馬らに危険を知らせたと言われています。

その「お龍注進の裏梯子」や「お龍の湯船」、2階での激闘の際につれられた柱の刀傷など当時をうかがえるものが現存。また襲われた部屋の床の間には、龍馬が捕り方に3発撃ったとされる拳銃のモデルなども置かれ近くで見れるようになっています。

JR京都駅八条口から京阪電鉄で中書島下車、北へ5分ほど歩いて南浜町に入ると道沿いに古い町屋が見えてきます。「旅籠 寺田屋」と大きな行燈をブラ下げて、当時とほぼ変わらない外観を留めています。

龍馬は左手親指に深い傷を負いながら、かろうじて脱出。救出を求めて夜の街を走ったお龍の機転にも助けられ、薩摩藩邸に無事匿われて命拾い。このことも合わせてお龍を伴侶とすることともなったのでした。

酢屋嘉兵衛宅~海援隊京都本部跡

酢屋嘉兵衛宅~海援隊京都本部跡

幕末維新 史跡観光

神戸海軍操練所が閉鎖となった後、行き場をなくした龍馬は、薩摩藩や土佐藩をバックに浪人たちの賛同者を募り、長崎で「亀山社中」のちの「海援隊」を結成します。

勝海舟のもとで航海術を身に付けていた龍馬らは、海援隊の志士たちで薩摩から借り受けた船を操り、薩摩の名義で買った最新式の銃などを積み荷として長州に届け、見返りに長州の米を食糧不足だった薩摩に届けるなど、日本初の「商社」として倒幕のために暗躍しました。

その京都本部となっていたのが、河原町三条下ル東入ルにある酢屋嘉兵衛宅。今も幕末当時そのままの佇まいで残っています。代々材木商を営み、龍馬は京都に来た時はここを常宿にしていて、今も「坂本龍馬寓居之跡」の碑が立ち、暗殺の数日前もここに泊っていたそうです。

近江屋跡

近江屋跡

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哀しいことに、ついに龍馬の終焉の地を紹介せねばなりません。影の立役者として推進した大政奉還が見事実現した1ヶ月後の1867年11月15日、潜伏していた河原町通り蛸薬師下ルの近江屋の2階奥座敷で、土佐の盟友 中岡慎太郎と二人でいるところを刺客に襲われ、頭を斬られた龍馬は遂に斃れます。享年33歳。

下手人については新撰組説その他様々な犯人説が取り沙汰されましたが、現在では京都見廻り組の佐々木只三郎、今井信郎らによる犯行との説が有力です。

道端に排気ガスで黒澄んだ「坂本龍馬 中岡慎太郎遭難之地」の石碑が、物言わぬ墓標のように見る人の心に幕末の英雄の無念の死を訴えかけてきます。現在近江屋跡は寿司店となっています。

霊山(りょうぜん)~坂本龍馬墓所

霊山(りょうぜん)~坂本龍馬墓所

世界遺産

円山公園から真っ直ぐ南へ向かい、高台寺を過ぎると二年坂の手前に大きな石の鳥居があります。これをくぐって「維新の道」に入り進んで行くと、そこは霊山墓苑。一帯は霊山護国神社として、幕末、志半ばで斃れた非業の志士たちを祀った墓所となっており、龍馬もここに葬られています。その中ほどにひと際、花や酒などがたくさん手向けてある賑やかな墓がそれで、向って左が坂本龍馬、右が中岡慎太郎、そして横にある少し小さな墓が、2人と一緒に近江屋で闘死した下僕で元相撲取りの藤吉の墓です。

ファンからのお酒や花、折り鶴などが150年経った今でも跡を絶ちません。

近江屋での事件の3日後、襲撃も予想される中、これを警戒しながら隊列を組んだ土佐藩士や海援隊士たちがここに葬ったと言われます。その後、鳥羽伏見の戦いや江戸城無血開城、会津での攻防や函館五稜郭の戦いなどいくつかの戦いを経て、時代は「明治維新」へと移っていきます。

日清、日露、2度に渡る世界大戦を経て到来した現在の民主主義の社会…徳川封建時代からの転換に命を賭けた150年前の坂本龍馬たちは、今の世をどう思うのでしょうか…。今となっては知るよしもありません。