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広島市 平和記念公園内の原爆慰霊碑の由来を知ろう!

2019年03月17日(日)/広島

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1945年8月6日、人類史上初の原子爆弾が投下され壊滅した広島市。その爆心地近くにある平和記念公園には当時中島新町など4町が存在し、広島で一番の繁華街でもありました。カフェーや映画館、食堂や旅館などが立ち並ぶ、きらびやかな商店街はしかし、爆心直下数千度の地獄の劫火に灼き尽くされ壊滅。そこに居た人々は一人も生き残ることは出来ませんでした。

「広島平和記念都市建設法」によって1952年、整備された平和公園…その土地の下にはたくさんの人々の生活の息吹の跡や思いが眠り、公園内には幾多の慰霊碑が建てられています。それらのひとつひとつは、もの言わぬ語り部として私たちに平和の尊さを語りかけてくるのです。今回は、広島、平和公園内の原爆慰霊碑の由来を中心にご紹介させていただきます。

原爆ドーム

原爆ドーム

原爆ドーム

平和公園の北側、T字型の相生橋の東のたもとにあるのが原爆ドーム。当時は広島県産業奨励館と呼ばれていました。チェコのヤン・レツルの設計により、1915年に建てられたレンガ造りのモダンな建物でした。1945年8月6日午前8時15分、米軍戦闘機B29エノラ・ゲイによって投下された人類史上初の原子爆弾は、上空約600メートルで炸裂。ほぼ直下にあったこの建物は爆風と猛火によって壊滅しました。しかし倒壊を免れ、今のような形で残ったのには理由があります。

原爆が炸裂した瞬間、直径300メートル、表面温度6000度の火球が発生し、ドーム型の天井屋根の部分は薄い銅板で出来ていたため熱に弱く、一瞬で溶解。続く爆風がそのまま建物の中に入り、窓ガラスを割って外に抜けました。強固なレンガ造りであったこともあり、瓦の部分は真上からの衝撃波で崩れましたが、すべて焼け尽くした後でも建物だけは今のような形で残りました。まさに原子爆弾のメカニズムによって、なるべくしてこの形で後世に残ったのです。

戦後、忌わしい原爆の記憶を消すためとして取り壊す動きもありましたが、多くの市民は忘れてはならない記憶のシンボルとして残すことを願い、1966年、広島市議会で永久保存が決められました。広島市内外の多くの心ある人々の募金により、以後何度かの補強工事が施され、今なお見る人々に原爆の悲惨さ、平和の尊さを訴え続けています。1996年にはユネスコの世界遺産にも登録され、世界中の人々が訪れる人類遺産となっています。

元大正屋呉服店

元大正屋呉服店

元大正屋呉服店

原爆ドームから南へ下り、元安橋を渡って平和公園に入ると、まず初めにレストハウスがあります。鉄筋3階建てのこの建物は、1929年に建てられ、元は「大正屋呉服店」と言い平和公園内で唯一の歴とした被爆建物です。戦争中は広島県燃料配給統制組合となり、石炭や木炭など燃料の配給をしていました。爆心地から170メートルという至近距離にも関わらず、倒壊を免れました。また組合の職員、野村英三さん(当時47歳)がたまたま地下室にいて生き残り這い出して、爆心直下で唯一人の生存者となり(1982年まで生存)、爆心地付近の直後の生々しい様子を証言しているのも有名です。

1995年に広島市は老朽化からこのレストハウス解体の方針を出しましたが、市民を中心に保存の署名運動が大きく盛り上がり、現在もレストハウスとして活用が続いています。

2016年、大ヒット作となった片渕須直監督のアニメ映画「この世界の片隅に」でも、主人公すずが大正屋呉服店の前を歩くシーンで、この建物の当時の姿を映像として見事によみがえらせたことで大きな話題となりました。

原爆慰霊碑

原爆慰霊碑

原爆慰霊碑

毎年8月6日の平和祈念式典で献花が行われ、平和宣言が読み上げられるのがこの原爆慰霊碑。正式には「広島平和都市記念碑」と言い、1949年の広島平和記念都市建設法によって辺り一帯が整備される中、1952年に完成しました。死者を雨露から守る埴輪を模った慰霊碑の下の石棺には、原爆死没者名簿が納められています。

東大助教授の故・丹下健三氏の設計により、北側の原爆ドームと平和の灯、そして慰霊碑と南側の噴水までが一直線に並ぶ見事な構図となっています。

碑には「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから」と刻まれ、世界中の平和を願う多くの人々が訪れる中心的な場所となっています。

原爆供養塔

原爆供養塔

原爆供養塔

平和公園の北端近くにある直径約10メートルの丸い土の塚は原爆供養塔と呼ばれ、この中に推定約7万人と言われる死没者のお骨が納められています。慰霊碑の方ではなく、この塚の中にこそ遺骨が眠っているのです。当時この辺りに散乱する遺骨を見かね、1946年に宗派を超えた広島戦災供養会の方々がここに納骨堂を作り、他の市内各所に散らばる遺骨も加えて納めました。

8月6日早朝、記念式典の始まる前の朝暗い内から、宗派を超えてここで毎年追悼行事が行われています。そして今なお名前が判明していても引き取り手の無い遺骨が814体(2017年)もあるのです。

慈仙寺跡の墓石

慈仙寺跡の墓石

慈仙寺跡の墓石

原爆供養塔の南側に少し窪んだ所があり、その中に大きな墓石が1基だけ残されています。当時この辺りは慈仙寺という浄土宗西山派のお寺があり、その境内にこの墓石もありました。しかし秒速440mという凄まじい原爆の爆風により、墓石の上に乗っていた五輪は吹き飛んで周りに散乱して落ち、爆風の吹き戻しによって浮き上がった墓石本体の下の隙間に小石が挟まり、傾いた形のままで現在まで残されています。当時の爆風の凄まじさを物語るものとして、この墓石だけが残されました。そのためここだけ周りよりも1mばかり低くなっています。これが被爆当時の広島の本来の地面なのです。

原爆の子の像

原爆の子の像

原爆の子の像

平和の灯のすぐ北、レストハウス前の道を渡った所にあるのが有名な「原爆の子の像」です。当時2歳だった佐々木禎子さんは、爆心地から2㎞の家の中で被爆し、体に特にケガもありませんでした。ところが10年後の1955年、小学校6年生になると突然原爆症(白血病)を発症します。

「鶴を千羽折ったら願いが叶う!」と回復を願って病院の薬の包み紙で鶴を折り続けた禎子さんでしたが、思いは叶わず、中学校へ一度も登校することなく、中1の10月に帰らぬ人となりました。放射能の影響による白血病での僅か12歳の短い命でした。

このことをきっかけに市立幟町中学校の級友たちを中心に子供たちが立ちあがります。2度とこのようなことを繰り返さないとの恒久平和を全世界に呼び掛けるため、「原爆の子の像」を建設する運動が広がり、そのうねりは全国へ、やがて海外にも声が広がりました。そして2年後の1958年5月5日の子供の日にこの像は除幕されました。

アーチの上には少女が空に向かって一杯に手を広げ折り鶴を抱いています。またアーチの中にある銅鐸型の鐘と金色の鶴は、ノーベル物理学賞受賞者の湯川秀樹博士の寄贈によるものです。現在では日本中の修学旅行生たちが必ず訪れるメッカであると同時に、世界の子供たちの平和のシンボルとしてすべての人々の誓いの場となっています。

市立高等女学校の碑

市女の碑

市女の碑

原爆資料館の南側、100m道路を渡った平和大橋西詰にあるのが広島市立高等女学校の慰霊碑です。市立高女は戦後男女共学となって市立舟入高校となり、筆者の母校でもあります。あの日、市立高女の1、2年生たちはこの辺りで空襲の際の防火地帯を作るための建物疎開作業(建物の取り壊し)をしていて被爆。職員・生徒合わせて676人全員がこの地で亡くなりました。これは一校の学徒の被災としては最大の犠牲です。乙女たちは13~14歳、爆心から数百メートル。直爆を受け大火傷を負った彼女たちは一人も助かりませんでした。探しに来た親御さんたちの手記「流灯」にその時の惨状がまとめられていますが、その凄まじさは涙無しには読めません。親御さんたちの胸中は如何ばかりか。

碑には少女三人の絵が彫られ、E=MC² としか書かれていません。これは当時占領軍のプレスコードで「原爆」という表現が使えなかったためで、アインシュタインの相対性理論の公式によって原子力エネルギーであることを表したものでした。被爆から2年後、2人の少女の遺体がこの地で発見され、乙女たちの作業の大体の位置が分かり、その翌年3周忌にあたり、碑はひっそりと舟入町の校内に建てられましたが、未だ占領中でもあることを憚っていったんは郊外のお寺に移されました。ようやく乙女たちの亡くなったこの地に建てることが出来たのは、サンフランシスコ講和条約が締結された後の1959年だったのでした。

県立二中の碑

県立二中の碑

県立二中の碑

平和公園の南西、国際会議場の西側の本川土手にある横長の石碑が県立第二中学校の慰霊碑です。その朝、県立二中1、2年生の男子生徒ら322人は、本川を背に爆心地の方角に顔を向けこの辺りに整列し、2列横隊で点呼を取っていました。まさにその時、原子爆弾が上空500mの至近距離で炸裂したのです。

ある者は川に吹き飛ばされ、ある者は崩れた建物の下敷きとなりました。3分の1は即死、かろうじて生き残った者も数日後までに全員が亡くなりました。その時、熱線で砂も燃えたと言います。その詳細は1969年、広島テレビ放送制作のドキュメンタリーをまとめた「碑(いしぶみ)~広島二中1年生全滅の記録」(ポプラ社刊)に詳しくまとめられています。

この日市内各所でいっせいに建物疎開作業が行われ、これに12~13才の未だ非力な男女学徒が多数動員されました。真夏の炎天下、薄着でさえぎるものも無い無防備な状態であったことも災いし、広島市内では6317人もの学徒が被爆死しました。これは第2次大戦中犠牲になった全国約1万人の学徒の6割に当たります。そのうちこの平和公園のあった中島地区では、11校1821人が作業中に亡くなるという大きな犠牲を出したのでした。

川内 義勇隊の碑

川内義勇隊の碑

川内義勇隊の碑

県立二中の碑と並ぶようにして、同じ本川土手のやや北側にあるのが川内温井村義勇隊の慰霊碑です。川内は広島菜の産地として有名な所です。碑には、この川を約8km北へ遡った旧安佐郡川内村温井(ぬくい)からこの辺りに建物疎開作業に来ていて全滅した180人の名前が刻まれています。

当時国内では男性の15歳~60歳まで、女性の17歳~40歳までは「義勇隊」として編成され、軍の後方支援に駆り出されていました。当日広島市では4万人の義勇隊が作業に動員されていました。全滅した川内の義勇隊は、一家の働き盛りの男ばかりで、従って川内温井村には奥さんたちや子供、老人ばかりが残されることとなり「後家部落」と呼ばれるなど、戦後はただならぬ苦労をして家を守ってこられたということです。


原子爆弾によって灼き尽くされ壊滅した広島市・・・ 市内にはおよそ300の慰霊碑や祈念のモニュメント、像などがあると言われています。いずれもそこで懸命に生き、また亡くなっていった人々の思いや由来の結晶でもあります。それらモノ言わぬ石碑のひとつひとつの意味やそこで生きていた人たちのこと、原爆被害の悲惨さなどを一人でも多くの方々に知っていただき、平和の尊さを感じてもらえれば幸いです。

◆交通アクセス◆

JR広島駅南口より広電市内電車で約20分(宮島行か宇品行へ乗車)、原爆ドーム前下車(大人150円) 

◆休憩ポイント◆

平和公園内の原爆資料館1Fに軽食喫茶とお土産物売場、飲み物自販機あり。

また平和公園入口の元安橋東側河岸にオープンカフェ、橋を渡った西側にはレストハウスあり。(お土産物売店と飲み物自販機あり)

(了)