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中国の覇者、毛利元就の居城 吉田・郡山城の見所

2019年01月24日(木)/広島

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「三矢の教え」で有名な中国地方の覇者、毛利元就は戦国乱世のこの時代には珍しく75歳の天寿を畳の上で全うした稀な武将です。智謀、智将で名を馳せ、権謀術数の知略で巧みに幾多のピンチを乗り越え安芸国(広島県)北部の山間の小領主から地道に版図を広げ、最盛期には中国地方全土を手中に治めました。

元就の遺訓は「けっして天下は望むな!」という堅実なもの。その元就が居城とした吉田・郡山城は小じんまりとした小山を全山要塞と化した典型的な戦国時代の山城・・・NHK大河ドラマでも取り上げられたため城跡はよく整備されています。今回は1997年NHK大河ドラマ『毛利元就』の舞台、吉田郡山城をご紹介しましょう!

毛利元就とは・・・

毛利元就肖像

毛利元就肖像

毛利元就は明応6年(1497年)、安芸国の吉田郡山(こおりやま)城に毛利弘元の次男として生れました。9歳のとき父が死に、兄 興元が家督を継ぎましたが、その兄も24歳で病没し、その子 幸松丸も9歳で夭逝・・・家臣たちに乞われ元就26歳にして初めて家督を継ぎ、郡山城に入城しました。翌年、異母弟の元綱が家臣らと元就の暗殺を謀ったため、これを誅罰し毛利家の基礎を固めます。

  最初は山陰の尼子方についたものの、のち周防(山口)の大内方に鞍替えします。天文9年(1540年)には尼子軍3万に攻め寄せられ郡山城を取り囲まれるも、5ケ月に及ぶ籠城とゲリラ戦で智謀の限りを尽くし、これを撃退。 その後地道に中国地方各地を従えて行き、遂に弘治元年(1555年)、元就58歳の時、世に言う「厳島合戦」において中国のもう一方の雄、周防大内方の陶晴賢軍を撃破。その後各地を斬り従えて中国地方の覇者となったのでした。

郡山合戦

郡山城全図

郡山城全図

天文9年(1540年) 元就43歳のとき、もとは山陰の尼子方についていた元就が、次男 吉川元春を北の押さえとしたことで周防(山口)の大内方に乗り換えたのを良しとせず、その年の9月に石見路から尼子晴久軍総勢3万の大軍が安芸国へ侵入。ついに郡山城は囲まれてしまいます。

そこで元就は合戦を前にして一族郎党から農民、町民に至るまで近隣の領民たちを男女大人子供問わず城の中へ引き入れます。その数8000人と言われ、うち兵は2400足らずでした。竹柵や逆茂木を周辺にめぐらし旗を立て数を多く見せたり、山中や林の中に伏兵をたくさん潜ませたり・・・数か月にわたって智略、智謀の限りを尽くし、兵と村人たちが一致団結して尼子軍に対抗していきました。

まず元就は、郡山城が丸見えとなる北側背後の甲山に尼子軍を陣取らせないよう間者に嘘の情報を信じ込ませ、城の南側になる青光井山(標高370m)に尼子軍の陣を取らせるよう仕組みます。その後はある時は本隊で、またある時は伏兵で・・・と戦闘を繰り返し、郡山城には容易に近づけさせませんでした。

青光井山尼子陣所

青光井山尼子陣所

逸話によれば、毛利方は女子供に至るまで竹や棒の先に金紙や銀紙をつけて郡山城内の壁際に並ばせ、城内にたくさんの兵がいるように見せたということです。4ヶ月目の12月、待ちに待った周防の大内方 陶隆房らの援軍1万が吉田に到着。尼子軍が一望のもとに見下ろせる東側の住吉山に陣を敷き、睨みをきかせます。

年が変わり天文10年(1541年)1月、ついに毛利軍は尼子軍への総攻撃を開始します。激戦の最中、大将晴久の大叔父である尼子久幸は、押し出したところを討ち取られるなど大敗を喫してしまいます。真冬の厳寒の中で、これ以上の滞陣は食料や物資補給が途絶えてしまう恐れなども危惧され意気も上がらず、折しも降ってきた大雪の中、夜陰に紛れて全軍を撤退させるに至りました。

これが世に言う「郡山合戦」で、大尼子を城内へ一矢も打ち入れさせず退けたことで元就はその名を天下に轟かせることとなったのです。

郡山城の全貌

郡山城跡の石碑

郡山城跡の石碑

アクセス

JR芸備線なら吉田口下車。ただここから徒歩1時間はかかるので車で来るのが便利。広島市方面からは山陰島根の松江まで通ずる国道54号線を可部を抜けて真っ直ぐ北上して約1時間、吉田の街に入ったら安芸高田市役所を右手に見ながら消防署の交差点を左(西)へ曲がり、県道6号線へ200mくらい行くと左手に大規模ショッピングセンターのゆめタウン(イズミ)が見えます。その先の信号を右(北)に曲がると歴史民俗博物館。(開館時間9時~17時、月曜休館 入館料300円)この脇から郡山城址へ登って行くことになります。

清(すが)神社

清神社

清神社

郡山城の麓にある毛利家の祈願所でもあった神社です。建立は1300年代と言われていて、「三本の矢」にあやかった地元広島のサッカーJリーグチーム「サンフレッチェ広島」の選手たちも毎年必勝祈願に来る所でもあります。名前の由来は八岐大蛇伝説の中で須佐之男命(すさのおのみこと)が大蛇を退治した後「吾が心清々(すがすが)し」と言ったことからと伝えられています。

三矢の訓跡の碑

三矢の訓碑

三矢の訓碑

城への登山道入り口を少し東にそれた辺り、少年自然の家の中庭にあるのが有名な「三矢の訓」跡の碑。元就が3人の息子を前に、「1本では折れる矢も3本束ねると折れない。兄弟3人で力を合わせるように」と諭したという有名な三矢の訓ですが、弘治3年(1557年)、周防の陣中で隆元、元春、隆景の三兄弟に元就が与えた書状の中に、14ヶ条に渡り3人が一致団結し協力して毛利の家名を長く将来にわたって残すよう力を合わせて行くことを諭したものが現在も残っています。大内氏は倒したが山陰の尼子氏らとの戦いは続いており、まだまだ不安定な情勢の中で三兄弟の一致協力を強く唱えた教訓状として史上有名なもので、防府の毛利博物館に現存しています。「三本の矢」の逸話は、この教訓状の内容から後世創作されたものだと言われています。

三矢の訓書状

三矢の訓書状

元就火葬場跡

元就火葬場跡

元就火葬場跡

元亀2年(1571年)6月14日、元就はこの地で亡くなります。享年75歳。初七日法会の後、この火葬場で荼毘に付されました。法名 日頼洞春、沈香の香りが遠くまで匂ったと言われます。

毛利一族墓所

毛利一族墓

毛利一族墓

登山道に入ってすぐに見えてくるのが吉田郡山での毛利家初代時親から元就の祖父  第8代 典元までの合葬墓。隣には元就の兄 興元(兄)、幸松丸(興元長男)、隆元(元就長男)夫人など元就に所縁の深い人たちの墓が仲良く並んで建てられています。

毛利元就墓

元就の墓

元就の墓

毛利一族の墓の隣にあるのが毛利元就の墓。生涯に200回を超す合戦に明け暮れ、智謀を重ねて中国地方の覇者にのし上がった元就も病には勝てず、食道癌を患い元亀2年(1571年)6月14日、郡山城内でその75年の生涯を終えました。墓のそばには墓標としてハリイブキの樹が植えられました。枯れて白くなっていますが現在でも墓のそばに残っています。

百万一心の碑

百万一心の碑

百万一心の碑

碑文は「一日 一力 一心」と分解して読み、皆で心を合わせて協力することの大切さを説いたと言われます。元就入城後、郡山城を拡張する時に当時の風習であった人柱に代えて、姫の丸の礎石にこの言葉を彫らせた石を埋めたと言われています。これで思い出すのは平清盛。平安時代末期、大輪田泊の港の防波堤を作る作業に際し、人柱に代えてお経を書いた石を沈めたと伝えられます。元就も清盛に似て合理主義者だったことを示す逸話ですね。

本丸跡

郡山城本丸跡

郡山城本丸跡

標高389mの山頂は35m四方の郭となっていて、北側には一段高い櫓もありました。大永3年(1523年)、元就は毛利家を継ぎ入城してから南側にあった旧本城を拡張していきました。城は山頂を中心に伸びた6本の尾根にそれぞれ大小270以上の郭が配された日本屈指の戦国時代の山城で、元就は生涯ここを攻め落とされることはありませんでした。

天正19年(1591年)、孫の毛利輝元が広島湾に近い広島のデルタに進出、広島城を築き、郡山城はその役割を終えたのです。

本丸跡全景

本丸跡全景

郡山城図面

郡山城図面

厳島合戦~勝負をかけた元就最大の決戦!

厳島

厳島

弘治元年(1555年)、元就58歳のとき、ついに雌雄を決する人生最大の大博打に出ます。近隣に平穏をもたらすには機会あれば安芸国に進出して来ていた西の雄、周防(山口)の大内氏が常に目の上のコブでした。「西の京都」と呼ばれるような貴族的な生活に惑溺していた大内氏を滅ぼし、主家を乗っ取った陶晴賢の大軍を厳島に封じ込め、これを奇襲により壊滅させ殲滅する・・・かねてより周到に立ててきた作戦通り、島内に城を築き毛利兵を入れて島を占拠したことにおびき寄せられた陶軍2万の大軍を4000の兵を二手に分け、元就自らは本隊を率いて深夜暴風雨の海を渡り島の裏側から上陸。その名も「博奕尾(ばくちお)」と称される島中央の高い尾根を夜陰密かに進み、明け方島正面の別働隊と示し合わせて寝ている陶軍に奇襲をかけ、混乱した敵方を圧倒。大将陶晴賢らを討ち取り、ここに長く権勢をふるった周防大内家をその日のうちに滅亡へと追いやったのでした。

まさに中国の覇王、毛利元就生涯最大の乾坤の一戦だったと言えるでしょう。

見どころ満載、安芸の広島、郡山へ来てみんさい!      (了)